米織歴史散歩

 米織歴史散歩

 

○紅花栽培 ○白子神社 ○養蚕安全を願って ○米沢製紙場 堀尾重興

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紅花栽培

 山形県を代表する紅花は「最上紅花」として、質量ともに全国にその名を知らしめました。かつて紅花は置賜地方(米沢藩)において生産されていたといわれています。

慶長3年(1598)米沢の統治は、上杉景勝の家臣、直江兼続に任され、慶長6年移封後も直江執政体制が続きました。藩の収入安定の為に、年貢は米と貨幣で納入する「半石半永」制が採用されました。これは、上杉氏以前の蒲生時代から引き継がれたもので、幕末まで継続されました。「半永分」の納入には、貨幣に換える必要があり、それには、特産物の栽培が重要な役割を果たしていました。紅花はすべて換金を目的として栽培されていました。
直江兼続の書といわれる「四季農戒書」(地下人上下共身持之書)は、藩の財政を支える農民の年貢納入を確実なものとするため、農作業についての適切な指示と、農民の心構えを示した指導書です。その中で、紅花つくりについても、とりあげています。
2月には「紅花畑の支度をし、吉日を選んで種をまくべし」
6月には「紅花ある所は、花かごを持ち、畠に出て袖をひらひらさせて紅花を摘んでおり、紅花がよくできた所では、朝早く起きて女こどもまでよく働いている」
紅花は朝霧のあるうちに摘み取ることを伝えています。

紅花は藍・茜・紫根・刈安と共に欠く事の出来ない染料でした。植物の天然染料は、その中に含まれる成分に様々な性質があります。草木で絹糸を染め、身につける事は、防虫や抗菌作用などがあり、人の命を守ることにも繋がっていたのです。明治時代、化学染料が広く使用されるようになると、紅花栽培農家も少なくなり、伝統染織技法は衰退して行きました。

昭和38年、米沢産地内で、紅花を織物に活用する為の取り組みが始まりました。紅花の原料確保、染色研究、新製品の開発など研究努力が続けられ、紅花染の米沢織物は、質の高い山形県の花「紅花」を、さらに輝きある染織商品として、広く紹介しています。

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養蚕の地 白子神社(しろこじんじゃ)


○白子神社外観

 由来によると・・・・・・
神のお力によって桑の林に無数の蚕が生まれ、沢山の繭を作ったので、桑の林やあたりの菅(すげ)が雪に覆われたように真っ白になった。
この不思議な出来事により、この地を白蚕村(しらこむら)と名付け、和銅5年(712)に社を造営して蚕菅社(こすげしゃ)と称し、白蚕明神(しらこみょうじん)とした。

このことから、この地が養蚕の地として古い歴史がある事がわかります。この社は、産土の神として、歴代藩主から深く崇敬され、厚く保護されてきました。第4代米沢藩主上杉綱憲の次男、吉良義周の奉納した「白子大明神」の扁額が残っています。
また、明和4年(1767)4月上杉家を継いで第9代米沢藩主となった上杉治憲(鷹山)の政治改革決意の誓詞が納められています。同年8月1日君主道徳についての誓詞を春日神社に納め、白子神社には藩再興に向けての大倹約令の決断が述べられた誓詞を同年9月6日に奉納しました。また、同年9月13日付で奉納した鷹山と江戸家老色部典膳の誓詞と、同年11月11日、支侯上杉勝承の誓詞が納められています。
鷹山の藩体制の建て直しは、大倹約令などの厳しい倹約の一面で、産業開発を進め織物業や、特産物の振興を図り養蚕業を盛んにしました。
藩政維持のための産業奨励により養蚕業は米作りと並ぶ産業になっていきます。

”山形県米沢市城北2丁目3-25”

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養蚕安全を願って

 養蚕は地域にとってとても重要なものでした。年中行事の中にもさまざまな蚕神信仰が行われてきました。山形県南部置賜地方では蚕を「オコサマ」(御子様、御蚕様)等と敬称で呼んでいました。白鷹町には、鷹山を養蚕神の守護神として祀った寺があり、領民が藩主に対して尊敬の念を抱いていたことが分かります。飼育技術の進歩しなかった時代は、神仏の力に頼ることが多く、文化・文政期頃から明治にかけ蚕神の石碑が建立されました。

山に対する信仰が厚い置賜地方では、湯殿山への信仰が強く、「湯殿山」の碑が多く見られます。山の神は、水や田の神や蚕神などに変化するなど、作神として人々から信仰されてきました。

米沢市小野川にある湯殿山碑には養蚕安全・養蚕倍盛を祈願したものがあります。祈願には個人的なものもあれば、同じ願いや信仰を持つ者同士が祈願するものがあり、この碑には「湯殿山 千人講中 供養塔」と刻まれています。

 
左:湯殿山 千人講中 供養塔  右:湯殿山 村中安全 蠶養倍盛

 綱木地区の山の神社境内には「蚕国大明神」と刻まれた碑があります。田沢地区にも蚕神塔があります。人々は作神である山の神に豊作・村中安全とともに、養蚕安全を祈願したのです。山の神への信仰の強さがわかる石碑です。


○綱木の蚕国大明神碑

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米沢製糸場 堀尾重興

 安政6年(1859)開港以降、「生糸」は海外輸出の主力品になりました。伝統的な座繰り製糸の製法は、糸が太くなりやすく「節」や「むら」が出ないように品質を統一することが難しく、輸出向きではありませんでした。生糸の品質向上と大量生産を目的として、明治5年官営富岡製糸場(群馬県)が設立されます。器械製糸技術が導入され、製糸業の近代化が進められていきました。
旧来の製糸法を墨守し続けている米沢の現状に、新しい器械による繰糸法によって品位を高める事で、民生の安定をはかり、生活の向上に資させようと乗り出したのが、旧米沢藩主上杉斉憲です。米沢人民総代の意見を聴取し、慎重審議の結果、上杉家と旧士族が協力して旧君臣協力の製糸工場設立が決定しました。
初代場長を上杉斉憲から命ぜられた堀尾重興の苦悩は筆舌に尽くしがたいものであったと伝えられています。

 
左:米沢製糸場(米沢織物史より) 右:明治天皇行在所遺跡の碑(松岬第二公園内)


 明治14年10月2日、明治天皇の東北巡幸では、米沢製糸場へ臨まれ、上杉斉憲と堀尾重興社長の案内で糸造場・繰糸場などを視察し、堀尾は生糸五結を献納しました。この時堀尾は和歌一首を添えています。「乙女らが 引き出す糸は細くとも 国の宝をつなぎとどめん」

    
左:「悟堂先生功徳碑」(悟堂は堀尾重興の号) (松岬公園内)

米沢製糸場の製品は「羽前エキストラ」という優良糸として米国や欧州へ輸出され、国内外で好評を博しました。堀尾社長はじめ、従業員の努力の賜物といえましょう。工場開設以来、無報酬で業務に精励した堀尾は、従業員はじめ、広く市民一般からも尊敬されました。
明治36年7月、堀尾の功徳をしのび「悟堂先生功徳碑」が建てられ、その業績を後世に伝えています。
舘山の米沢製糸場は、米沢の近代化に影響を与えました。
米沢製糸場の跡は大正4年(1915)「東レザー分工場米沢人造絹糸製造所」が入り、「帝国人造絹糸株式会社米沢工場」と改められ、秦逸三による我が国初の人造絹糸の発祥地となるのです。

 

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