組合の成立

米沢織物を基幹とする工業都市へ


~明治25年米沢絹織物業組合の設立~

○放任無統制時代

 かつて上杉鷹山の政策による殖産の奨励で、米沢藩の特産物に発展してきた絹織物は、廃藩置県後、新しい社会環境の中で家内工業から近代化への転換を迫られていきます。
明治9年、政府によって士族に「金禄公債証書」が発行されると、米沢藩の士族の多くは、その資金で織物業に従事するようになります。いわゆる「公債機」で、隆盛を極めた米沢織物は、かつての藩政下のような規格取り締まりなどが行われなくなり、全くの放任無統制下で粗製乱造の製品が続出し、ついに信用を失墜させてしまいます。

 

○組合の起こり

 明治25年(1892)3月、織物の品質向上の機運に際し、同業者の団体を組織して、協力一致改善の趣意書が一同に示されました。


クリックすると、趣意書が表示されます。

 269名の加入調印があり、同年10月6日「米沢絹織物業組合」が成立しました。業者の規模の相違や、製造・販売・染色相互関係など、その成立は容易ではありませんでした。検査の強化と共に、染色の改良を主要事業にして、品質向上に向けた取り組みが行われていきます。


~工業教育~

○山形県立米沢工業高等学校設立にむけて

 明治27年の法制を機に、各地に実業学校の設立が相次ぎました。米沢でも、米沢有為会が中心となり、組合に米沢工業徒弟学校設立を建議します。組合では、京都・東京・群馬・栃木の各機業産地を視察。工業教育勃興の状況を調べ、徒弟学校よりも工業学校の設立を回答します。当時、米沢地場産業の中心的役割を占める米沢機業の振興を図るために、技術者を養成する工業教育機関を設け、学理を実地に応用しての技術革新を急務としたのです。創立費の半額を組合が負担する事とし、これにより、設立案を議決した市長は県に申請したのです。更に東奔西走多くの寄付が集まりました。明治30年4月市立米沢工業学校(現・山形県立米沢工業高等学校)開校式が挙行されました。入学者数は染織本科42名、機織・色染別科50名の2学科92名です。更に、県立に変更すべく努力を続け、明治31年4月山形県立工業学校となります。以後、校舎の拡張や新式の設備など充実が図られていきます。
明治38年県立工業学校教諭高柳芳一は、欧米の力織機を折衷して「高柳式力織機」を開発しました。米沢をはじめ、仙台・盛岡・秋田・越後・八王子・甲州郡内・静岡等の各機業地におよそ2万台を移出しました。

 

○山形大学工学部・二科存続運動

 明治43年、全国7番目の高工としてスタートした米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)は、地元産業との共同研究を進め、米沢機業にも多くの影響を与えました。染織科は色染科及び紡織科に分離独立されていました。大正4年米沢高工紡織、色染両科目を廃止し、来春より開校の桐生高工への染織科に移転する問題に際して、組合では市当局と一致協力の行動をとり、二科存続に向けて尽力しました。
大正4年(1915)同校教授、秦逸三による人造絹糸の製造が「東レザー分工場 米沢人造絹糸製造所」で始められ、後に会社を帝国人造絹糸株式会社として事業を継続し、日本の人絹発展に貢献します。米沢工場は昭和6年に操業停止のやむなきに至っています。

 

~組合の変遷~


○買継商中心時代

下:明治時代の織物組合
 明治32年7月3日、法人組織となり「米沢絹織物同業組合」と、改称しました。組合員は600名を超えました。米沢の織物は、県内でも重要産業の地位を占めるようになります。組合はその中核機関として目覚ましい活動を展開していきます。組合が結成されて以来、買継商を中心に、大阪や京都、東京など全国に販売されました。この買継機構は昭和に入り、一大転換が図られます。

 

 

 

 

 

 

○統制時代

下:大正時代の織物組合(現・米織別館)
 戦争の拡大で戦時統制へと移行し、昭和12年から産業経済を始めとして、統制法令が相次いで公布されます。山形県内11の織物組合が解散し、昭和16年、県内織物業界単一組織としての「山形県織物工業組合」が発足しました。置賜支部は米織組合内部に置かれました。
また、整理染色・商業部はそれぞれ「山形県繊維整染工業組合」「山形県織物産地元売株式会社」として組織化され、米沢撚糸組合と鶴岡漁網工業組合が合併し、県内一円組織として「山形県撚糸工業組合」となり、米沢の組合に事務所がおかれます。


 織物製造業整備要綱の施行で、織機の供出や、軍需品生産の為工場転用など転廃業を主とした企業整備作業が実施されます。供出された織機金属部品は、軍需資材として供給されました。統制の強化に伴い米沢においても、軍需織物の生産や、県内にある残糸や農家の保有糸などを買い上げて特需織物を製織したり、全国的に行われていた農賃織物の生産の取り組みが行われました。

戦争はますます激化、「統制組合法」による徹底した軍需優先の統制が敷かれ、昭和19年山形県織物工業組合は、「山形県織物統制組合」となり、関連機関も統制組合に移行しました。
終戦時の米沢産地における織機保有台数は、広幅1200台、小幅1600台(供出前はおよそ7000台)となっています。当時はまだ指定生産の統制経済にありましたが、全国的に深刻な物不足で、米沢でも闇市場が軒を連ね、物々交換には手持ち衣料品が圧倒的に利用されました。こうした状況下で織機を供出した工場建物の所有者の復活操業が盛んになります。織物需要が増す中で、米沢産地は軍需織物の基盤と進駐軍需要などが、復興を促進していきます。
統制的な仕組みも次第に薄れ、同22年鶴岡支部は「鶴岡織物工業協同組合」として発足し、それ以外の産地の組合員によって「山形県織物工業協同組合」が発足します。米織会館(現・米織別館)に事務所が置かれました。この県組合は昭和25年解散となりました。

 


~組合再建~

組合の組織も無く、本格的な産地の機能が発揮されない情勢の中で、各同業者の会員同志が団結を図り、相次いで部会を設立していきます。技術・品質の開発研究などの活動が盛んとなり、組合組織運営の推進的存在となります。昭和27年全業者を含めた組織「米沢織物同業組合」を設立します。次々に開発される化学繊維に対応して、服地開発、起毛・樹脂加工設備の充実、宣伝事業の拡大など、本格的な組合活動を展開していきます。同28年5月「米沢織物同業協同組合」へ改組されます。買継商の商業部会が中心となり、販路の拡大に奔走し今後の躍進を計ります。販売機構を備えた産地の傑出した製品づくりが行われていきます。
戦後のめざましい繊維製品の復興は、全国的な生産過剰となり中小企業安定法や繊維工業設備臨時措置法による生産の抑制策が採られてきました。各産地で織機供出を実施するなど生産調整が続きます。
組合を中心に業界の振興対策が講じられます。昭和32年には各業種別の青年会が結成され、それぞれの趣旨目的を掲げて親組合事業推進の為に協力態勢を整えます。さらに青年会員によって、各産地間の情報交流を提案実施するなど中小企業に係る諸問題の改善にも取り組んでいきます。

 

~連合会発足~

下:現在の米織会館
 昭和37年、製造・商業・染色・整理の各部会が単独の事業協同組合を設立し、さらに撚糸・意匠の6事業体(この時、縫製は未加入)を統轄して米沢織物協同組合連合会が発足しました。昭和39年には、米沢織物青年連合会が発足します。
この一連の連合体制による産地内新機構が進むなかで「産地は一つなり」のスローガンのもと組合施策の一つとして、昭和43年産地の拠点となる米織会館が建設されました。変転の早い業界の動向に対処し、産地全体の振興がはかられていきます。

 

 

 

 

 

 米織歴史資料館では、伝統の資料品を展示保存し、米沢織物の変遷を伝えています。
米沢織物は米沢藩復興の原動力となり、米沢市の基幹産業として産業経済の振興を推進してきました。産地産業として、新たな「米沢織物」を発信していくべく体制づくりを強化し、地域との連携を促進し、産地の活性化に取り組んでいます。

 

 

 

 

 

~組合名称の移り~

明治時代

25年10月

米沢絹織物業組合

32年 7月

米沢絹織物同業組合(同業組合法)

大正時代

13年 7月

米沢織物同業組合

昭和時代

16年12月

山形県織物工業組合

19年 7月

山形県織物統制組合

22年 3月

山形県織物工業協同組合

25年 6月

米沢織物同業会

27年 6月

米沢織物同業組合

28年 5月

米沢織物同業協同組合(協同組合法)

29年 9月

輸出向絹人絹織物調整組合

30年

内地向絹人絹織物調整組合

31年

米沢絹人絹織物調整組合(繊維工業設備臨時措置法)

37年 2月

米沢織物工業協同組合

37年 4月

米沢織物協同組合連合会

45年 5月

米沢絹人繊織物構造改善工業組合

62年11月

米沢織物工業協同組合(米沢織物工業組合)

平成時代

8年 9月


米沢繊維協同組合連合会

25年 4月

米沢繊維協議会