米沢織物の歴史

米沢織物の歴史


  米沢産地は、日本国内の繊維産地の中で最北の産地です。織物の素材は、青苧に始まり、絹・人絹・化学繊維と推移してきました。現在は、天然繊維と化学繊維の総合産地となっています。

○麻織物の原料 青苧

 
左:からむし 右:青苧

 江戸時代の初め、米沢ではすでに漆・桑・からむし(苧麻)・紅花などが栽培されていました。上杉氏が米沢に入部した慶長6年(1601)、上杉景勝の重臣直江兼続は、城下町の整備を行う一方で、これらの特産物を引き続き奨励し、藩の買上制としました。後の藩の専売制の始まりとなりました。青苧(からむしから取りだした繊維)は、初め南部藩に売り出され、後に藩の主要な特産物として奈良晒や越後縮の原料として、織物産地に売られていきました。

○麻織物


○麻織物(米織歴史資料館所蔵)

 第九代米沢藩主上杉鷹山の産業開発により、安永5年(1776)越後から縮師を迎えて、縮役場を設け、織り方を家中の女子に習得させ、織りだされたのは青苧を原料とする麻織物でした。これが、米沢機業の始めといわれています。

○絹織物

 
左:米琉紬(米織歴史資料館所蔵) 右:山上の大クワ(県指定天然記念物)

 鷹山の藩政改革により、桑の栽培と養蚕が盛んになると、織物は麻織物から麻絹交織、そして絹織物へと移行していきます。安永以来、約40年間の歳月を必要としたのです。真綿を原料にした紬織物は、米琉紬、長井紬、白鷹紬と呼ばれ、のちに統一され、伝統的な置賜紬に発展していきます。

 明治に入り、化学染料による染色方法が普及し、力織機の改良開発が行われます。米沢織物の海外向け製造も始まり、主にインド・アメリカに輸出されました。これが米沢織物輸出の土台となり、戦後海外展示会開催も行われるなど伝統となっていきます。 大正6年(1917)同8年(1919)の米沢大火が力織機への転換を促進しさらに近代化が進みます。現在、全国で第一位のシェアを占める袴地の生産は大正時代から頭角を現します。良品を出す為の人々の努力によって、米沢織物は綿々と現在に至っています。
 
右:西野式足踏み力織機(米沢織物史)
 
 
 
 
 
 
 
 

 
○袴-大正時代(米織歴史資料館所蔵)

○人絹(レーヨン)

  大正4年(1915)米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)教授秦逸三の研究により日本で初めて人造絹糸が発明され製造が始まりました。米沢では、全国に率先して人絹応用の織物の研究開発が進み人絹撚糸は高く評価されます。人絹及び人絹交織を主流とした米沢織物産地も、戦時統制下で軍需品優先の生産体制が取られます

 

右:人絹(レーヨン)

 

 

 

 

○化合繊維

 戦後の洋装化に伴い、合成繊維織物等の新品種の開発や仕上げ加工技術の進歩に対応して、米沢織物の婦人服地は産地の新分野を確立していきます。絹をはじめとして化合繊まであらゆる種類の糸を組み合わせ手の込んだ製品を作り上げます。現在は、高級婦人生地として海外有名ブランドにも使用されています。また、呉服の高級化志向により品質の向上、商品開発が進みます。紅花染をはじめ草木染等の新商品が生まれました。技術の伝承や、新しい衣生活の提案など米沢織物のさらなる可能性への挑戦は続きます。